文章中の
傍線(1〜5)の
カタカナを
漢字に直し、
波線(ア〜コ)の
漢字を
ひらがなで記せ。
(20)
2⨯5
1⨯10
A 劉備は、その喧しい人声と人影の中に立ち交じって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の手にはいることを心配していた。一度、商人の手に移ると、バクダイな値になって、とても自分の貧しいノウチュウでは購えなくなるからであった。
瞬く間に、市の取引は終わった。仲買人も百姓も物売りたちも、三々五々、夕闇へ散ってゆく。劉備は、船の商人らしい男を見かけて慌ててそばへ寄って行った。
「茶を売って下さい、茶が欲しいんですが」
洛陽の商人はオウヨウに彼を振り向いた。
「あいにくと、お前さんに頒けてやるような安茶は持たないよ。一葉いくらというような佳品しか船にはないよ」
その種子は、遠い熱帯の異国からわずかにもたらされて、周の代に漸く宮廷の秘用にたしなまれ、漢帝の代々になっても、後宮の茶園に少し摘まれる物と、民間のごく貴人の所有地に稀に栽培されたくらいなものだとも聞いている。(吉川英治「三国志 桃園の巻」より)
B 抑鑑定家なるものは動もすると虫眼鏡などを振り廻して、我々素人を嚇かしにかかるが、元来彼等は書画の真贋をどの位まで正確に見分ける事が出来るかと云うと、彼等も人間である以上、決して全智全能と云う次第じゃない。何となれば、彼等の判断を下すべきものはその書画の真贋である。或いは真贋に関する範囲内での巧拙である。所がその真贋なり巧拙なりの鑑定は何時でも或る客観的標準の定規を当てると云う訣に行こう筈がない。たとえばラッカンとか手法とか乃至紙墨などと云う物質的材料を巧みに真似たものになると、その真贋を鑑定するものはホトンど一種の直覚の外に何もないと云う事に帰着してしまう。が、如何に鋭敏な直覚を備えていたにした所で、唯過去に於いて或る書家なり画家なりがその書画を作ったと云う事実だけの問題になったら、鑑定家にして占い者を兼ねない限り、到底見分けなんぞは付きはしまい。(芥川龍之介「鑑定」より)